福音を齎す至高のピアニスト、リヒテルが生まれた日

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ロシアのピアニスト、スビャトスラフ・リヒテルが生まれた日(1915年)。時代に翻弄され、長らくロシア(旧ソ連)の外で演奏することが叶わなかったリヒテル。諸外国からは〝幻のピアニスト〟として扱われた。45歳でようやくアメリカデビュー、その10年後には来日も果たし、親日家であったという。彼のステージは、暗闇の中にスポットライトひとつを灯し、まるで一筋の光の中で演奏しているようなものだった。

Piano Concerto No.3
Andante Favori
Violin Sonata No.27

1967年11月。雨の日だった。シエナの音楽院の練習室に入ると2台のピアノが置いてあり、あの大男リヒテルが立っていた。彼は向かって左側のピアノに向かい、通訳を介して「あなたは右側に座ってオーケストラのパートを弾いてください」と告げた。私は内心、予想したとおりだと思った。

フィレンツェで予定しているコンサートではモーツァルトとブリテンのピアノ協奏曲がプログラムに組まれていた。リヒテルはブリテンの友人で、彼のコンチェルトをレパートリーにしていたのだ。テストは、まずモーツァルトのコンチェルト第15番から始まった。第1楽章から第3楽章まですべて一緒に弾かされた。弾き終わると、リヒテルは何も言わずに第4楽章まであるブリテンの協奏曲へと進んだ。無事難曲を弾き終わると、リヒテルがこう言った。

「あなたが今弾いたように指揮してくれるなら、一緒にコンサートで演奏しましょう」

こうして彼との協演が決まった。本番となる68年3月のコンサートはフィレンツェ五月音楽祭歌劇場オーケストラによる待遇改善などを求めるストライキ騒ぎで中止になってしまったが、私をフィレンツェに招いてくれたパオーネ五月音楽祭総裁は、同じプログラムを音楽祭のシーズンに組み込んでくれて無事演奏することが出来た。

リハーサルではストライキに入るかどうかでオーケストラのメンバーの間に対立が起き、異様な雰囲気が漂っていた。だが、私は冷静に対応した。すると楽員の間に私を歌劇場の専属指揮者に推薦しようとの声が上がったのだ。ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団のときもそうだが、私はまだ経験が浅かったにも関わらず、オーケストラから頼まれたならと喜んで引き受けた。指揮者として大きなチャンスを与えてもらえるわけだし、何より指揮者はオーケストラと信頼関係を持つことが大事だと考えたからだ。

フィレンツェでの演奏会を機に友人となったリヒテルは、私がヴォット先生の影響を受けて暗譜で指揮するのを見て「なぜ暗譜するのだい。目は使わないのか」と言ったことがある。この一言で私は必ずスコアを譜面台において演奏するようになった。スコアは何年読み続けていても本番に新たな発見をもたらしてくれることがある。

その数年後にリヒテルとジェノヴァで共演したときの忘れられない思い出がある。ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲を演奏中に、彼がある箇所で音を間違えそうになった。私は瞬間的にオーケストラをコントロールし、彼もすぐ取り直して、幸いにも聴衆が気づくようなミスにはならなかった。ところが彼はそのことが大変気になった様子で、アンコールでもう一度全曲を弾き直したいと言った。私はオーケストラを説き伏せてもう一度演奏することにした。今度は完璧な演奏ができて、彼は満足げだった。

その翌日、ジェノヴァの駅でフィレンツェ行きの列車を待っていると、同じく駅にいたリヒテルが近づいてきて、ラヴェルのスコアを出してくれという。彼は昨日の演奏で、もう少しでミスとなる箇所のページを開くと、その音符の上にサインして「毎回ここで間違ったと思い出せるようにね」と言った。私は巨匠の謙虚な側面を見たような気がして胸が熱くなった。

リッカルド・ムーティは1967年に、若手指揮者のためのグィード・カンテッリ賞を受賞。1972年からフィルハーモニア管弦楽団を定期的に指揮し、オットー・クレンペラー以来の首席指揮者に任命される。その5年前の、〝大男リヒテル〟との初顔合わせと、友情を強く感じた経緯を「私の履歴書」に書いている。26歳の指揮者には素晴らしい福音となったリヒテルの言葉。

1966年、卒業演奏としてムーティは指揮者として初めてオペラを振ることになった。ジョヴァンニ・パイジェッロのオペラ『マルキアーロの居酒屋』。

1700年代のナポリ地方を舞台にしたオペラで古いナポリの方言で書かれており、6人の男女が恋愛関係のもつれ合いをこの居酒屋の周りで展開するもので、そこに居酒屋の主人や森の洞窟に住む精霊を巻き込んで、もつれ合いがほぐされて、3組のカップルが結ばれる喜劇。パイジェッロはモーツァルトのオペラで有名な、「フィガロの結婚」の前編に当たる「セビリャの理髪師」をオペラとして作曲。ウィーンで大ヒットを出しました。

このときムーティ青年は学生オーケストラを右手で指揮し、左手はオーケストラピットの手すりにかけていました。それを客席から見ていたアントニーノ・ヴォット先生が近寄っくるなり、いきなりムーティ青年の左手をバシッと叩き、一喝した。
「何をしているのだ! 恰好をつけているのか!」
指揮者の左手は、遊ばせておいてよいものではなかったはず。大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは言いました。
「指揮者の腕は頭脳の延長である」
ディミトリ・ミトロプーロスいわく
「右腕はリズムをコントロールし、左腕は心を表現する」
冷水を浴びせられた心地のしたであろう、ムーティは2025年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのニューイヤーコンサートでも、左手は音楽の情感を伝えると強調していました。

ピアニストからは指揮者は伴走者で、上半身が見えるくらいでしょうが、ムーティの指揮のスタイルは、膝を屈伸させて右腕を低く下げるダイナミクスの表現が個性と言える特徴。ロリン・マゼールも暗譜の指揮者ですが、譜面台にスコアを置いているのはオーケストラを指摘するときのため。スコアは表紙を閉じたままの演奏が多かったものです。トスカニーニ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインが暗譜で指揮するのは事情がありました。佐渡裕が助手をしていた、バーンスタインが演奏会に所持してきたスコアは硬くて開き癖がついてなかったと思い出話しています。カラヤンと協演録音した東の横綱リヒテルも、西の横綱には「なぜ暗譜するのだい。」とは進言しないでしょう。

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